ものぐさのおと

おじさんのひとりごと

品質不正の風土と品質保証

品質不正、品質不祥事の発生は、枚挙にいとまがない。

22年3月日野自動車、21年2月の小林化工、3月の日医工。ニュースで伝えられるのはごく僅か。ネットで検索すれば、ぞろぞろ出てくる。

テレビでは社長が謝罪している姿を見かける、品質不正が企業にとって最大の危機であることは自明である。

経営側は、ことごとく風土改革、組織体制の改革を宣言する。しかし、不正を起こした会社は本当に風土が変わっただろうか。その検証は、多くの場合なされていない。なされているかも知れないが、一般消費者には見えない。不正、偽装を10年以上も続けてきた組織にあって、企業文化の土壌である企業風土が簡単に変わるのかと思う。品質保証部や検査部は、10年以上も存在し、長年その位置にいて、そういう待遇しか受けてこなかったら尚更である。業績や売上げ公表値と直結する開発計画、納期が優先される中で、期待通りの試験結果が出ないからといって開発計画を遅らることができるだろうか、その勇気があるだろうか。開発部門に進言したらしたで、試験方法は正しいのか、計測機は正しいのかとか、やり直す時間など無いとか、嫌味いっぱい言われるのがオチだ。経営者に試験結果が悪かった、製品は出荷できない、と進言して、よく言ってくれたと感謝されるだろうか。経営者にとっては、極めて聞きたくない、面倒な話なのだ。品質保証部だって経営者には嫌われたくはない。なんとかしたいと思う。試行錯誤の後、何度が試験した中でたまたま合格になればその数字を使おうと思うのではないだろうか。

品質不正を起こした会社の報告書を読むと、そこには品質保証が本来の機能を果たしていない実態が細かく書かれている。誠に品質保証としての本来の役割を実行していないのであるのは明らかだ。

しかし、出世を望む管理職であれば、正義感あるいは勇気を持って、経営者と対峙できるだろうか。数字を誤魔化すか、会社の信用失墜か、どちらかを選択するのである。果たして多くの場合、自分に多くの言い訳をしながら、かつ正当化しながら、現実に近い方、すなわち前者の方を選択するのである。出世を望む本人にとっては、会社の信用失墜なんてあまり関係のないことなのだ。

企業の一員であり、そこから生活の糧を得ている人に対して、不正を良心の欠如、正義感のなさとは、一概に言い切れないのである。

「風土の変革」を唱えたところで、品質保証部には何もできない。それをいった途端、それは経営側の課題となる。しかし、現経営が、風土の上に成り立ってきている以上、実効性があるかどうかは疑問である。

正当に品質不正をなくすというのなら、品質システム、仕組みの問題として捉える必要があるのではないか。そうなるとこれは品質保証部の問題である。仕組みが形骸化していたなら、それを放置してきた、または守れられないことを見過ごしてきた品質保証部の責任と言える。

経営者が、品質不正の原因を風土だとしても、品質保証部は、同調してはいけないのである。それを見つけられなかったのはなぜか、見つけようとしなかったのかなど、数多くの課題があるのではないか。

開発に愚痴られる、納期が迫る、経営者には進言できない、だったら、そうならないような仕組みを考えようとはしなかったのか。品質保証を担う者が苦し紛れに不正をすることが無いよう、仕組みを考えることはとても重要なことであると思う。またそれは組織にとっても重要で必要なことなのだ。